Oct.12.2017
たとえば
大きなことがよいとか決めているのは
見方によると, 独りよがりの判断でしかない
と思います
そもそも目の前の状況を「判断」した段階で,
それ以上そのことについては考えない,
ということですから,
ある意味で
生ける現象=変化するものごと
にそれ以上対応していくことが
できなくなってしまいます
人間関係でもありがちですが
レッテルを貼る
ことの威力は, プラスにもマイナスにも
相当の影響を周囲に及ぼすものです
(ニックネームなんて最たるものですね!)
ありのままにものごとを見る
というのは, すこぶる難しい, いや,
ほぼ無理なことですが
哲学者たちはそれを希求してきました
近代科学の父デカルト,
彼らは
感情・判断を中止してものごとを見ることを
エポケー
と呼びました
ルネ・デカルト 近代科学の父 座標の発案者
西田敏行さん似?(ごめんなさい)
小生の恩師である美学教授は, よく
熱弁をふるう血気盛んな学生に
あ, あのね, エポケーしてね
とにっこりとたしなめられてました
その「にっこり」に軽快な狂気を直感し,
何と美しい叱り方だろう!
と思い, 翌日弟子入りしました
このエポケーする精神は,
近代科学の基本中の基本とも言われるもので,
端的に言いますと,
客観的なものの見方をするための最低限の
エチケット
とでもいうものです
すぐ感情的になったり
「これはこうだ」的に判断したりしていては
冷静なものの考え方などできないですから
そう考えると, エポケ一からはほど遠い
政治家のほぼ大半の方々が
近代以前に思えてしまうのは僕だけでしょうか
そういえば, 昔,
家庭教師で英語を担当させて頂いていた大学受験生に
この「エポケ―」の話しをしたところ,
犬の名前にいいですね,
エポケ-!
って呼んでふり返ったら,
チョーかわいくないですかぁ…
というキラキラコメントをしてくれました...
たしかに, 音感的にはありですかね…
意味と音のギャップ萌え?
ところで,
古来日本でもこの「エポケー」に類似した
発想が, 禅仏教にあります
それは,
今, ここに生きよ
という考え方です
もちろん, これは
後先考えるな, という意味でも,
刹那に生きよ, という意味でも,
断じてありません
頭の中をよぎるどうでもよいことばを
雲の流れのごとく見なし続け
それらにとらわれない心の強さを養う
そのためのミーム(文化的遺伝子)です
京都竜安寺の石庭
20世紀最高の哲学者と称されるウィットゲンシュタインも
『哲学探究』という本で
考えるな, 見よ!
と言っています
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
チョーイケメンじゃないですか!?
(ゆるっとした引用ですみません...)
個人的には,
〈質 Ⅹ 量〉こそがものごとの価値を決めると言っても
過言ではないと頭では思っておりまして,
仕事中もそれを心がけられるようにと
エポケーし続けたいと
願って願ってやまないのですが
現代日本社会においては
あるいは, 幸福の国ブータンまでも含め
世界的な基準になってしまっているかもしれませんが
小生は, 日に日に自分も含め
強い, 大きい, 豊か,
というアメリカ的価値観の
最も表層的なものが
どうしてもはびこってるとしか思えません
資本主義社会の必然的・悲劇的ベクトル
といいますか…
体制内異端児のぼやきです
そうした中で
何を価値を置いて生きていくべきなのか
ゆるゆるとぼんやりとした不安の中
どうしても考えてしまいたくなります
夜とか
そもそも価値とは何かということについて
ほぼ考えないまま過ごせるというのが
消費社会全体の病と言えるのかもしれません
ものとお金が体や身の周りを完全包囲し
流れ続けているわけですから
それがピカソが言う現代病,
つまり
あらゆるもの, あらゆるひとに
意味を見出さずにはいられない状態
に誘うのかもしれません
資本主義社会ではどうしてもわかりやすさに
価値や重きを置くので
このような 3点が強調されますが
そこに質を省みるきっかけを持ちにくいことに
らせん状の見えない磁場を感じてやまない
今日このごろです
それでは,このへんで