tsuputon's blog

英語の名言をベースに, 哲学から医学・薬学に至る雑学を, ゆるまじめにご紹介していきます

蛇縄麻の喩え:世界は自分の心のあらわれである

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                                                          Dec.22.2017

 

 

ある人が闇夜に一人歩いていますと,

蛇に出くわし,慌てて家に帰りました

夜中,家に入ってきたらと考えると,

怖くて眠れません

朝になって恐る恐る確かめに行くと,

それはなんと,縄でした!

さらにもっと近づいてよくよく見れば,

単に麻を編んだだけのものです…

 

これは,

鎌倉時代唯識仏教僧良遍が書いたとされる

『法相二巻鈔』に出てくる

「蛇縄麻の喩え(だじょうまのたとえ)」

というお話しです

 

     世界は自分の心のあらわれである

 

と考える唯識仏教心理学のエッセンスを

表現する喩えだと言われます

 

   あっ,蛇だ!

   いや,縄だ!

   いやいや,麻だ…

 

まず恐怖心が先だって蛇だと思い,

その恐怖にさいなまれた後よくよく考えて,

勇気を出して見直してみればそれは縄で,

もっともっと分析すれば麻だとわかる

 

日常生活でも, 早とちりの小生は

非常に身につまされるすばらしい喩えです

つい先ほどのiPadの操作でさえ,

なんでこのページが出るんだ!ってパニックになって,  

よくよくどこを押したのかを思い出せば,

それは自分のせいで,

さらにもっと勉強すれば楽な手順が別にあった,

などなど…

 

理性を保ち感情に揺さぶられずに,

自らをコントロールし続ける,

とてもとても大事なことだと思いますが,

なんと難しいシンプルな戒めでしょう!

 

自分の失敗を笑いながら,

こうした唯識仏教心理学的な発想を

他の偉人たちはするんだろうかという目線で

いろいろと見ておりましたら,

少し目にとまったことばがありました

 

本日はその名言をご紹介したいと思います

 

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まずは,  ゲーテの名言です

 

    We only see what we know.

    私たちは知っている物しか見ない

 

これはまさに蛇縄麻の喩えそのものです!

現代的な学問と言いますと,

認知心理学でも,  私たちの認識というものは,

たとえ目の前のものでさえ,

自分がそこにあると想定している範囲内でしか

対象を認識できていない,

という実験結果が出ているそうです

予測したものしか認識していない…

なんと狭い狭い境地でしょう!

まさに「蛇」しか認識しないわけです

 

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Johann Wolfgang von Goethe 

 

 

ピカソも独自の芸術論において,

唯識仏教心理学に近い発想を表明しています

 

    I paint objects as I think them,

    not as I see them.

    私は対象を見たままにではなく,

    私が思うように描くのだ 

 

「見る」より「思う」が先行する,

自分の心が対象の認識よりも先だつということは,

自分の心が世界である,  つまり認識である,

という見方と考えられるでしょう

 

そういうピカソにとって,

認識は受動的にするものではなく,

能動的にするものでした

 

    I do not seek, I find.

    私は捜し求めない,見出すのだ

 

「捜し求める」と言いますのは,

元来の「答え」にあたるものが世界にあり,

文字通り捜索することで結果,

対象を得られるということですが,

ピカソにとって対象というものは

自らが「見いだす」ものだったわけです

 

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 Man Ray: Pablo Picasso

 

 

ピカソの盟友,岡本太郎氏は次のように語ります

 

    多くの他人との出会いによって,

    人間は「他人」を発見する

   「他人」を発見するということは,結局,

   「自己」の発見なのだ

    つまり,「自己」を発見するためには,

    大勢の協力者が必要になる

 

最も広い解釈をしますと,

自己=他人だと太郎氏は仰っています

 

自分だけで自分が分かるわけがない

自分は他人を見て自分を知る

まるで鏡を見るかのように自分の心が反映される

 

ここで言う「他人」というのは人を超えて

事物すべても含めた「他者」的存在とイメージしますと,

世界は自分の心のあらわれであるとする,

唯識論に近づくと思われます

 

太郎氏はまた,こうも述べています

 

   何にもしないで,人生を無駄に過ごすなんて,

   つまらないじゃない

   そういう生活を続けていると,世界全体を見失うし,

   また,自分自身を見失うことになる

 

何もしないで人生を無駄に過ごせば,

世界全体を見失い,自分自身も見失う,

もはや,太郎氏の意識の中では

世界=自分になっています

 

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 岡本太郎『日の壁』

 

 

ゲーテ,  ピカソ,  太郎氏,

この三者のいくつかの名言を見るだけでも,

唯識仏教心理学の言う視点に

極めて類似したものの見方を垣間見て取れます

 

驚くべきことは,

すでに紀元4世紀にはこの唯識論を唱えました

瑜伽行唯識学派という仏教学派が

存在していたということです

 

こうした卓抜なミーム(文化的遺伝子)が

脈々と時の試練を超えて

生きながらえ続けている一方で,

物質主義的な資本主義社会生まれ育ち,そこにまみれ,

その恩恵と快楽に溺れながら,

ちらちら批判的に生活している,小市民的で

「体制内異端児」に過ぎない小生は,

一体何を「世界」として認識しているんだろう,

一体何を知っていると言えるんだろうと,

ふと我に返り,黄昏てしまいました

 

やはり,

後世に唯識論という透徹した心理学を世に提出せしめた

ブッダの次のような教えの深遠さと普遍性には ,

ただただ脱帽する以外ありません… 

 

    戦場において百万人に勝つよりも,

    唯だ一つの自己に克つ者こそ,

    じつに最上の勝利者である

 

それでは,  このへんで

ごきげんよう

 

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広隆寺 半跏思惟像