Nov.15.2018
三島由紀夫は,昭和元年1925年,
東京都四谷生まれの小説家です
代表作は多数あり,
ノーベル賞候補にもなった
海外にも広く知られた作家です
『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた
初の日本人です
日本の文壇に与えた影響は大きく,
その交流も多岐に渡りました
とりわけ若い頃から
三島氏の才能を認めていた
川端康成氏との濃密な関係は
よく知られています
三島氏の絢爛豪華で詩的な文体の繊細さは,
人間を内外ともに普遍的領域にまで
透徹する眼差しを
持っていたためでしょうか,
今でも色あせることなく,
新鮮さを感じさせます
本日はこの,三島由紀夫の
名言のいくつかをご紹介したいと思います
(英文拙訳)
まずは,
一般論を根底から覆す
鋭いコメントからです
無神論も、徹底すれば徹底するほど、
唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。
無気力も、徹底すれば徹底するほど、
情熱の裏返しにすぎぬ。
The more thorough an atheism is,
the more it is the other side
of the same coin of a worship
of the absolute God.
The more thorough an apathy is,
the more that of passion.
「好き」と「嫌い」は,
同じエネルギーが正反対に
なっているだけであると
考える心理学があります
何事も極端にまで行くと,
そのちょうど対極にあるものに近づく…
三島氏はこの真実を,
宗教的「無神論」「唯神論」と,
個人的な「無気力」「情熱」とに
当てはめることで
具体化されています
とりわけ後者は,
昨今日本の社会問題とも言えます,
様々な世代の「引きこもり」の方たちに
ぜひ知ってほしい発想です
またこの「情熱」という語を
用いた別のフレーズもありました
伝統は野蛮と爛熟の
二つを教へる。
Tradition teaches us
both savage and passion.
あまりにも含蓄があります…
伝統は後世に,何かしらの
知恵・知識・技術を伝承していくよう
促します
その過程において,
例えば職人芸であれば「情熱」の
闘魂伝承と言えるでしょう
ですが,
それが民族レベルなどになり,
「国家」のこととなりますと,
気がつけば戦争という「野蛮」
にまで至ってしまいます
これは文化的遺伝子=ミームの
本質をついた資源だと思われます
続きまして,三島氏は
「習慣」について独特な見解を
述べておられます
精神を凌駕することのできるのは
習慣という怪物だけなのだ。
It is only the monster of habit
that can exceed the spirit.
先日とある教育関係のブログで,
やる気は長続きしないけれど
習慣は続けられる,として,
生徒たちにいわゆるモチベーション,
モチベーションと連呼するのではなく,
どのような形であれ「習慣化」
させることが,
教育の現場における指導者にとって
最も大切なことだと結論されている
記事を見ました
確かに「やる気」は
一過性のものなのかもしれません
ある日本当にそう感じたとしても,
次の日体調や天候あるいは
人間関係上の問題によって,
そのエネルギーが萎えてしまった時,
「やる気」がなくなり何も手もつかない…
それよりは日々のルーティンとして
「習慣化」できていることは,
自分の気分や「やる気」いかんに
かかわらず,体を使って
何かを続けることになりますので,
当然後者の方が強力な動力源となります
さらに三島氏は,女性と習慣について
こうコメントされています
男性は本質を愛し、
女性は習慣を愛する
Men loves essence,
while women habits.
言い得て妙なるかな…
それは「愛」についても通じるものが
あるのでしょうか?
愛するということにかけては、
女性こそ専門家で、
男性は永遠の素人である。
As for loving,
only women are experts,
and men are eternal laymen.
そして,三島氏は男性代表として,
こう嘆息します
愛は断じて理解ではない。
Love is never understanding.
理性の極北における狂気の発動こそ,
愛です
というのも…
人間はあやまちを犯して
はじめて真理を知る
It’s not until we make a mistake
that we can know the truth.
何故に人間は,
こうも愚かなのでしょう?
ただ,愚かなりの
自己防衛本能は発動されます
人間に忘却と、
それに伴う過去の美化がなかったら、
人間はどうして生に耐えることが
できるだろう。
If it were not for oblivion
and beautification of the past
along with it for us human beings,
how could we bear our lives?
深層心理学の父,
フロイトの至言を思い出しました
このように考える三島氏ですから,
一般の「社会常識」や「固定観念」
の偽善性は,
当然看破しておられました
潔癖さといふものは、
欲望の命ずる一種のわがままだ。
Cleanliness is a sort of selfishness
that our desire orders.
『耽美派』と称された三島氏は,
芸術家かくあるべしとする「美学」を
明白に持っておられました
例えば…
自分を理解しない人間を
寄せつけないのは、
芸術家として正しい態度である。
芸術家は政治家じゃないのだから。
It’s a right attitude for an artist
that he doesn’t attract
those who don’t understand him,
because he isn’t a politician.
現代芸術家の企業主義的・
商業主義的傾向を
三島氏が目の当たりにしたら,
決して彼らのことを「芸術家」と
呼びはしなかったことでしょう
と言いますのも,
彼にとって芸術家は「社会適応」など
しようのない存在だったからです
芸術家といふのは自然の変種です。
The artist is a mutant in nature.
「生きる」ことについて,
こう述べておられます
生きることが難しいなどといふことは
何も自慢になどなりはしないのだ。
You can be proud of
saying to live is difficult.
小生も含め,
「新橋のおじさん」方などの
現代日本人の愚痴のほぼ全てが,
この一言の炎で完膚無きまでに
燃やし尽くされそうです…
では,
三島氏にとっての「救い」は
何だったのでしょうか?
誤解を承知で
申し上げさせて頂きますと,
それは「美」のみだったと
確信しています
人生は夢なれば、
妄想はいよいよ美し。
Life is a dream, so, accordingly,
the delusion is the more beautiful.
それでは,このへんで