April.22.2018
柳宗悦は,1889年東京生まれの
思想家・美学者・宗教哲学者です
民藝運動を起こしたことで
知られています
「用と美が結ばれるものが工芸である」
として,工芸美・民藝美について多く説きました
旧制学習院高等科時代に英語教師の
仏教学者鈴木大拙に出会い,
生涯師事しました
高校卒業後は
文藝・美術雑誌『白樺』の編集に参加して,
交流しました
現代でも日本の美学界にとっては
日本や東洋の芸術を語る際に
欠かすことができない美学者です
本日はこの,柳宗悦(むねよし)の
名言のいくつかをご紹介したいと思います
(英文拙訳)
まずは,宗悦自身による「自己紹介」です
生きている間に少しでも
この世を美しくしてゆきたいと念じている者です
I am the one who is eager to try to make this world
even only a little more beautiful during my life.
後々見ますように,
この気概は実に具体的なものです
続きまして,
宗悦の代名詞とも言えます,
「用の美」についてのコメントです
用とは共に物心への用である。
物心は二相ではなく不二である。
Utility is the one that is both for things and minds.
Things and minds are not two, but inseparable.
宗悦の美学の核である「用の美」
その「用」を定義していることばです
彼の言います「用」は単なる「機能」ではありません
分けることのできない「物心」,
つまり三次元と四次元に同時に通じる有用性こそが
「用」だとしています
物心二元論の西欧合理主義精神に対する,
東洋的物心一元論の宣誓です
大正時代に,
はっきりこうことばにしていた段階で,
宗悦の感性の輝きと炎が見て取れます
ただ,
宗悦の美学は抽象的な概念としての「美」ではなく,
具体的な物の「美」が対象でした
今の器が美に病むのは用を忘れたからである。
The sickness of lacking beauty in today’s vessels
is caused by forgetting utility.
宗悦はただ装飾美だけを目指すものは
「病んでいる」としました
そう考える中で,
「美の国」を具体的に実現するために
自らの生を捧げました
私は美の国をこの世に来したいばかりに、
様々なことを考えまた行おうとしているのです。
Just as I do want a country of beauty
to come into this world,
I’m trying to think and do various things.
なにか賢治の夢に通じる気魂を感じます
宗悦は「民藝運動」を開始し,
従来の「貴族的なもの」ばかりに
焦点を当ててきた美学者たちの俗物根性を断罪します
美のことについては
今までは誰も美術にのみ注意を傾けましたが、
美の密意を解くためには、
工藝がいかに大切な鍵を与えるかを
悟るに至ったのです。
Up to now, as for beauty,
everyone has paid attention to arts,
but in order to find the secret of beauty,
I have come to realize
how important a key the folk crafts give us.
こうして
「貴族的なもの」に対する「民衆的なもの」の
美的優位を,臆することなく高らかに宣言したのです
貴族的なものに病いが多く、
かえって民衆的な品に健康さがある。
Those those of the aristocratic tend to be ill,
while those of people are rather healthy.
仏教的に言わせて頂きますと,
「貴族的なもの」は煩悩にまみれている,
「民衆的なもの」にこそ,
無垢な美が宿るとしたのです
温室の花は虫に犯され易く、
野の花は雨風にもよく堪えるのです。
平凡なものだからといって直ちに蔑むのは
正しい見方ではないでしょう。
The flowers in the greenhouse
are vulnerable to insects,
while wild flowers
are tolerable even in the rain and wind.
It isn’t a right attitude
to despise something instantly
because it is plain.
さらに…
貴族的だという性質が
何も美の標準とはならないことを、
よく了解しなければならないのです。
We must understand well
that the nature of being aristocratic
cannot be the standard of the beauty at all.
宗悦は,「美の国」は,
少数の富裕者だけの特権的「美」ではなく,
多数の民衆による量的「美」で国が溢れない限り,
実現不可能だと論じました
そしてそのためには,地域の「民藝品の美」こそ,
鍵となる不可欠な要素である,と
こう考えた宗悦は,民藝品の作者,
無名の職人たちの擁護を惜しみませんでした
無名の職人だからといって
軽んじてはなりません。
彼らは品物で勝負しているのであります。
Never make light of nameless craftsmen;
they are fighting with their articles.
その心は?
実に多くの職人たちは、
その名をとどめずこの世を去っていきます。
しかし彼らが親切にこしらえた品物の中に、
彼らがこの世に活きていた意味が宿ります。
Quite many craftsmen leave this world,
not making people remember their names;
however, among their articles
they had made with kindness,
there are meanings of their lives in this world.
そして「用の美」の発想が誕生しました
名もなき職人が実用のためにつくり
庶民の日常生活の中で
使われてきたものこそ美しい。
It is the articles
that were made by nameless craftsmen for utility
and have been used in everyday life of people
that are beautiful.
鉄絵緑差松文甕(日本・江戸時代)
このように,
宗悦は下品で低次元な「貴族的なもの」ではなく,
素朴でシンプル,高次元な「民衆的なもの」を指す
キーワードとして,
「用の美」を提出したのです
「用の美」は時空を超えた価値を有します
例えば最近の流行りになっています「千鳥格子」は,
時を超えて生きながらえてきました,
何気無いミーム(文化的遺伝子)です
過去のものといえども
真に価値あるものは
常に新しさを含んでいる。
Even if it is old,
something that has real value
always includes something new.
こうして宗悦は,
高次元の「美」が,じつは
人々の日常生活の中にあったのだと注意を促し,
「美の国」実現をするための原点として,
そこで倒れ,最期を迎えたのでした
机上の空論になりがちだった当時の美学の正反対で,
自分の心を虚しくし,自分の目で直接確かめた上での
「美的直観」にのみ根拠を置くものでした
美しさへの理解の基礎は
直観を措いて他にないのです。
There is nothing but intuition
that can be the foundation
of our understanding of beauty.
つまり,私たちはみな日常生活の中で,
民藝品をはじめとして,
自分の目で美を発見し,美を愛で,美を広める
ことが出来るはずなのです,いえ,
そうしなくてはならないのです
私達のすべては
この世を美しくする任務があるのです。
All of us have the mission
to make this world beautiful.
それでは,このへんで