April.3.2018
仏教学者です
アメリカをはじめ世界に日本の禅文化を
広く知らしめた方です
いわゆる「ヒッピー」たちに
瞑想の素晴らしさを伝えたことでも
知られています
ニューヨークを拠点とし,アメリカの上流階級に
日本禅の思想を広めました
さらに東西哲学者会議などにも参加し,
1949年には文化勲章を授与されました
1963年にはノーベル賞候補になりました
自らも参禅され,
96歳の生涯を終えられるまで,
机上の学問で終わることのない
実践哲学者でもあられました
臨済禅です
本日はこの,鈴木大拙のクリスタルクリアな
名言をいくつかご紹介したいと思います
(英文一部拙訳)
まずは,端的明瞭な西洋人と東洋人の
思考方法の違いについてです
西洋人は物事を頭で考えて
分析・比較・対照するが、
東洋人は全体を見て
腹で考える。
The Westerners think of things with their minds
and analyze, compare, and contrast them,
while the Eastern see the whole and think
with their guts.
西洋的身心二元論と,
東洋的身心一元論とを,
見事に伝えるコメントです
西洋的思考法は頭による分析が基本で,
東洋的思考法は腹による総合が基本だ,
と考えておられます
一言で「心」と言いましても,
例えば英語では mind と heart を分けて考えます
つまり,理性と感性を分けるのです
ところが,東洋ですと,「心」はその両方を,
時には身体と人間心理の全てを
一気にさしています
同じ対象を相手にしたときにでも,
アプローチがまるで逆です
もはや私たち日本人は義務教育の初期段階から,
西洋的思考法にいかに慣れるか,
に主眼が置かれています
では,大拙によります東洋的思考とは?
その一端が垣間見られるフレーズです
指は手の指でもあるが、
手は指の手でもあるのだ。
この指の中に手が入っているのだ。
そういうことは量的にいえば不都合千万で、
とてもそうはいえない。
けれども、1つのレベルを飛躍すると、
1本の指に手が入っておる、
世界が入っておることになってくるのだ。
A finger is the one of the hand,
but the hand is also the finger.
In this finger, there is a hand;
so irrational in quantity is this that we can’t say that.
However, if you jump over one level,
in a finger, there is a hand,
that is, the world.
ものすごく圧縮解釈するのをお許しいただけるなら,
中枢は末端を支配するけれども,
末端が中枢を支配することもある,
ということです
これは最近「身体化的認知」として
脳科学で注目されている発想に通じます
同じくらいの学力の小学生たちを2グループに分けて,
片方は一切利き手でない手を動かさないよう,
一方は利き手でない手を自由に動かしつつ,
という条件で,計算問題を解かせたところ,
後者の方が軒並み結果が良かったそうです
つまり,
手という末端が脳を活性化しているのです
これが国民と国家中枢でも言えるといいのですが…
大拙の大胆な発想は3次元世界のみで考えますと,
はなから無理な話ですが,5次元世界からしますと
小が大を含むことはありえます
ブラックホールとか…
大拙はこに発想を,日本と世界に当てはめています
日本というものは世界あっての日本で、
日本は世界につつまれておるが、
日本もまた世界をつつんでおるということ、
これは、スペースや量の考えからは出てこない。
そのように考えるためには1つの飛躍が必要とされる。
その飛躍が大事なのだ。
Japan is, because the world is;
she is held by the world, while she also holds it.
Such an idea can’t derive
from the concept of space or quantity;
in order to think so,
one leap is necessary: it is the leap that counts.
ここでも「飛躍」,
つまり次元変換が必要だとしています
「日本もまた世界をつつんでおるということ」,
この自覚は現代の私たちにこそ必要な,
飛躍的発想ではないでしょうか?
続きましても,「非・常識」な知恵です
風が吹くと木は倒れる、
風は倒す力に誇ることをしない、
木も倒されたといって風を恨まない、
風は吹く、木は倒れる、それだけである。
無心で無念である。
「御心の如くならせ給え」である。
If the wind blows, a wood will fall down,
but the wind doesn’t boast of the power to do so,
nor does the wood feel against the wind;
the wind blows, and the wood falls down, that’s all.
There is no mind, no idea.
This is, “Do it as you like.”
自然の摂理に喜怒哀楽はありません
感情にほだされるのは人間だけです
風は吹く,木は倒れる
それだけ…
それを見て「擬人化」し,
物語を作ってしまうのは,
単なる人の性にすぎません
自然界の無心・無念の美学
私たちが自然に癒される理由は
そこにあるのかも知れません
だからこそ,大拙は「生きる」ことについて
こう語ります
われわれは知性に生きるのではなく、
意志に生きるのだ
We don’t live on our intelligence,
but on our will.
悟りとはどのようなものかを問われ,
大拙はこう答えたと言います
足が地面から数センチ
浮いている感じ以外は,
普段と変わりません
It is not different from my everyday life
except that I feel my feet floating
some centimeters above the ground.
ちょっとだけ,
重力の束縛感から解放されるようです…
そして,その境地への到達は
個々人の「単独性」=「孤絶」によるとします
孤絶なる語を
仏教者の使う絶対という意味に解すれば、
それは最も卑しと見られている野の雑草から、
自然の最高の形態といわれているものにいたるまで、
森羅万象のなかに沈んでいる。
When aloneness is absolute
in the Buddhist sense of the word,
it deposits itself in all things
from the meanest weeds of the field
to the highest form of nature.
ここまできますと,現代科学で言います,
「全体が部分に現れる」ホログラムや,
通底するものを感じざるを得ません
そこに至る心構えは?
空に踊り込むことです
To dance into the emptiness.
それでは,このへんで